泥の中に咲く蓮の花
こんにちは。少しご無沙汰していましたが、その間に梅雨が終わり、暑い季節がやってまいりました。
先日、朝のお勤めの後のご法話をさせて頂きに、ご本山(高田本山 専修寺(せんじゅじ))に行ってまいりました。この日は、7月の下旬という事で、蓮の花が見頃でとても綺麗に咲いていました。
蓮の花というのは、『維摩経』(ゆいまきょう)というお経に「高原の陸地には蓮花は生ぜず。卑湿淤泥(ひしつおでい)にすなわち蓮花を生ずといえり」(高原のような良い環境では蓮の花は生えず、決して良い環境とはいえない低い沼だらけの中にこそ、この蓮の花は咲く)と説かれていて、仏教においては、泥の中からその泥に染まらず美しい花を咲かせる蓮の花を尊いものとして大切にしています。
そして、泥のように煩悩(自己中心の心)だらけの私達が、蓮の花のように美しい清らかな心を持てるような生き方をして、やがては悟りの境地に達していきましょうという教えがもともとあります。しかし、その事を心がけようと思い、その事に向き合えば向き合うほど見えてくるのは、美しい心を僅かひとつも持ちあわせていない自分自身の本当の姿です。
ある時、私は、娘たちが姉妹喧嘩をしていた時、「お互い、もうすこし相手の事を考えてあげなさい」と言いました。すると娘たちが、「お父さんだって、色々な事で文句をいったりするじゃない」と返してきました。それに対して、私は図星をつかれたばつの悪さも手伝って、「何を言っているんだ! 親に口ごたえをするんじゃない」と怒ってしまいました。そうすると娘たちに、しばらくそっぽを向かれてしまいました。
よくよく考えると娘たちに「相手の事を考えてあげなさい」と言っている矢先に、娘に自分に不都合な事を言われて、逆に腹を立ててしまうこの私こそが、「相手の事を考えずに自分の事しか考えていない」という事に、気付かされました。
蓮の花を眺めた時に自分も泥の中から綺麗な花を咲かせられるよう、美しい心を持って生きていこうと想う心も大切ですが、そこから先の想いとして、しかし、自分にはとうていこのような綺麗な花を咲かせるような美しい心を持ち合わせていないのだという事に気付けるかどうかというのも大事なのではないでしょうか。
そして、その時にこそ、このような汚れた心を持つ私に寄り添い、手を差し伸べてくださっている阿弥陀如来様のお救いに気付かせて頂けるのではないでしょうか。
蓮の花が咲くには、太陽の光が必要なように、私達には、自分以外の色々な人やものの支えが必要です。
泥の中から、その泥を肥やしにしつつ、太陽の光を浴びて綺麗な花を咲かせる蓮の花を眺めながら、これからも泥に染まってそれをなくす事ができない私ですけれど、阿弥陀如来様のお救いのお心や色々な方々への支えに気付き、それらの方々の想いに自然と手があわさるような、お念仏申し上げる日々を送らせて頂けるよう過ごしていきたいと想ったのでありました。
合掌
住職