『報恩講』②
後半のご法話に於いては、ご講師の大河戸師が、「無明」(むみょう)を主題にしてお話下さいました。
ご講師の大河戸悟道師
「無明」について、その言葉の意味から性質や私達との関わりなどを順序に沿って、分かり易く、大変丁寧にお話下さりました。
「無明」とはこの世の道理を知らない無知という事であり、私達の苦しみの原因であるけれども、それは、私達には自覚のできない深い所にあるという事。この「無明」の闇を阿弥陀如来様の「智慧光」のおはたらきが破って下さる事。しかし、その破られた「無明」の闇は、霧が晴れるように綺麗に消えて無くなるというものではなくて、死ぬまで消える事がないものだと知らしめて下さるものだという事を親鸞聖人が、『正信偈』やご和讃の中で明かして下さっているという事を教えて頂きました。
また、大河戸師は、お念仏を称えても「何も変わらない」という想いになったら、それが正解ですよと仰られました。
それは、ともすると「お念仏」申する事によって苦しみや迷いから解放されると思いがちな私達がが、そうではなくて、「お念仏」申す日々を送る事によって、段々と阿弥陀如来様の「智慧光」という光に照らされて、自己中心的な心である煩悩に身も心も冒されている自分自身の姿が知らされていくという事ではないでしょうか。
私自身、このお話の事を理解しようとすればする程、色々と頭が混乱してしまいました。まさに無明の真っただ中にいて、そこから離れる事ができな私であります。しかし、その事にほんの少しですが、気付かせて頂けた事は、ありがたい事だと思う事もできました。
仏法とは、自分自身の生き方というものを教えて下さるもので、その教えの中で、色々な気付きを重ねていく事が大事であるという事を再認識する事ができた有意義な『報恩講』のお勤めでありました。
合掌
住職